その日も、また言い合いになった。

「いい加減強情だなお前も!」
「閣下がわからずやなんですよ。いい加減にしてください」
「巳代治!」

 あの温厚で有名な伊藤が真正面で声を張り上げる。

「お前は自分の考えがこの僕の考えをねじ伏せてまでも正しいとでも思ってんのか!」
「思ってますけど」
「思ってんのかよ!」

 盛大に突っ込んでも巳代治は素知らぬふりをして伊藤から視線を決してそらしはしない。
 この有能な秘書は"私の閣下"の意見に敬意を払うとかいう概念が欠落しているのだ。
 いや、彼にとっての最大の敬意がこうして真正面から意見することなのだろうか。

「私が、正しいと思わない意見を"私の閣下"に申し上げるとでも?」

 どうやらそうらしい。伊藤は気が抜けたようにため息をつきつき椅子にどさっと座り直した。
 それすら面倒に感じてしまって、ずるずると自分には大きすぎるように感じる椅子から降りると、机の横をすり抜け向かいのソファーにごろりと寝っ転がった。
 巳代治はそんな伊藤を目で追い、ソファーにごろごろと定位置を定めた頃を見計らって近づいてくる。他の人間が首相に相対するようなよそよそしい距離よりは近く、けれども寝そべっている伊藤に圧迫感を与えることのないちょうどよい位置まで。


 伊藤は目を閉じた。さっきまでぎゃんぎゃん言い合っていた広めの部屋は嘘のようにしんとして、窓ガラスを木の枝がひっかく音がやけに大きく響いた。なのに側に感じる巳代治の気配は鏡かと思うほどの水面のように動かない。
 感情的な言い合いになるかならないかのときにはこうして恐ろしいくらいの平静を保ってこちらをまるめこむくせに、時に理解しがたい些細なことでへそを曲げ口も聞かなくなる。
 どんな無茶な注文も聞いてくれるくせに唐突に仕事をボイコットして逃避行とくる。全く手に負えない。
 しかし手に負えない人間ほど操縦の仕方がわかったときがおもしろい。これは風見鶏と言われる伊藤の一種の遊びだ。
 あの手に負えないことでは日本史上上位ランクイン間違いなしと思っている高杉晋作さえ上手に桂さんという切り札を出せばそれとなく予想の範囲内で行動してくれることがあった。その予想がすでに手に負えない範囲と言うのはご愛嬌にしろ。

 あんな魔王に比べれば巳代治なんて可愛いものだ。しかも切り札自体もある意味手に負えない人間だった幕末と違って、こいつの切り札は伊藤自身と来た。制限がきくというのもある程度平和でよい。
(何し出すかわからない部分もあるけどね、良かれ悪かれ打算的だよ)


「僕が今何を考えているかわかる?」
「芸子の膝枕のことですか」
「おまっ、いや、頭の隅ではそうだけど、違うよ」

 自分で頭の後ろに手を組みながら下からにらみつけてやると、巳代治は肩をすくめた。
 伊藤はもう一度目を閉じた。


「神戸では部屋から海が見えたよね。きらきらしてて僕は好きだったな」

 まぁもう昔だしそんなに長いこといたわけじゃないから、他のことはよく覚えてないけどね、と伊藤が付け足すと、少し間を置いてから私もあまり覚えていません、と返ってきた。珍しいこともあるものだ。あの頃は、色々緊張していたんですと巳代治がつぶやいた。
  

 長崎で生まれ育ち、彼の地で英語をたたき込まれたというその少年が始めて連れてこられたとき、確か今みたいに少しも動じず表情すら動かさなかったように思う。それはその年故の無愛想さもあったろうが、あれが彼なりの緊張というならば、ある意味傍若無人とでも形容すべきこの頑なな現在の秘書にも少しは可愛いところがあるらしい。
 ・・・・・いや。


「あの頃は本当によかったよねぇ。あの頃のお前は本当に可愛かったさ」
「心外です、私は今でも閣下のために可愛く美しくあろうと日日努力してますよ」
「そうだねお前が可愛いことは知ってるよ」
「閣下ったら素直ですnれy・・・」
「そうじゃなくてあの頃のお前は僕がどんなに笑顔で話しかけても無愛想に仕事に戻っちゃったりさ、世間慣れしてない感じがもう思い出すだけでももったいないくらい可愛かったよ。
 それが今ではこ う な っ ち ゃ う ん だ か ら 時 の 流  れ っ  て  残    酷    だ     よ      ね」

 うっかり可愛いなどと口にした瞬間からしまったと思ったが言ってしまった物は回収できない。
 気配に飛び起きると盛大にこちらをのぞき込んでいた巳代治と頭突きする羽目になった。景気のいい音がなる。


「閣下を襲う奴があるかよ!」
「襲ったんじゃありません閣下が珍しく素直なので迫ってみただけです!」
「迫るな!飼い犬に襲われるとはまさにこのことだよてか頭いてぇ・・」
「頭が痛いのは閣下が突然飛び起きたりするからです私も痛い。それよりも閣下ったらそんな飼い犬だなんてなんかエロいry」

 いつのまにかソファーの傍らに乙女座りで座り込んで身を乗り出していた巳代治の両ほっぺを片手で容赦なくぎゅむっとつかみ黙らせる。
 間抜けな顔でみよみよ何か言っているが聞かない方が今後のためだ。

「僕は基本的に他人に優しくしちゃう損な性格なんだよね。でもここまで直に身に危険が迫るとさすがにそういう訳にもいかないよ」
「閣下何か勘違いしてらっしゃいません?私は閣下を襲うよりむしろ襲われたい方なのnry」
「襲い受けって知ってるかな伊東君」

 そんな破廉恥なことしりませんとか何とかをひよこ口でみよみよ言っているが破廉恥と知っている時点で知ってるだろうというかぶっちゃけ知らないでいて欲しいよ本当にそう思うよと伊藤は心の中で頷いた。

「つれない閣下なんて嫌いです」
「嫌ってくれて全然結構」
「山県さんの秘書になりますよ」
「山県閣下はもっとつれないと思うけどね、お前太郎君とよく愚痴りあいしてるじゃないか」

 喋れるくらいに力を緩めてやると頬が赤くなっていた。さすがに容赦なくぎゅむぎゅむしすぎたかと少し伊藤は反省する。
 開いている片方の手で巳代治の眼鏡を取ると、自分でかけてみた。若干くらっとしたが、よく見える。天井の木目の具合までよくわかるので、適当に指で頬をさすってやりながらおもしろくなって部屋を隅々まで見渡してみた。
「押しても迫っても引いてもダメだなんて、どうしたら閣下は巳代治の方に振り向いてくださるんですか。いっそもう襲うしかないじゃないでry」
「そうだね、さっきも言ったけど僕お前の顔は結構好みだよ。
 だから黙って大人しくしてたら可愛がってやらないこともないかもしれないね」
 
 先ほどの反省を全力で後悔してもう一度力任せにぎゅむっとした上でこちら側にぐいっと引き寄せてやると半分涙目になってみよみよ鳴いた。聞かない方が今後のためであることは言及済みだ。

「かっかいらいでう・・・」
「あぁごめんごめん。言ったろお前の顔は好みなんだって」
 如何にもテキトーに言いつくろって手を離してやるとぺたんと床に尻餅をついて自分で両頬をさする。
「黙って大人しくしてたら、ホントですか」
「考えないこともなくなくはないよ」
「じゃぁ、大人しくしてますよ」
 けろっと甘ったれた声から普段通りの声に戻すと、巳代治は立ち上がる。そして伊藤から問答無用で眼鏡を取り返し、自分でかけた。今まで見下ろしていた間抜けなひよこ口の"ひよっこ"が、若干赤みが残っているのはそれとして廟堂でも屈指のできすぎる長身の部下に変わる。

「・・かけてないほうが可愛いと思うよ?」
「仕事に支障をきたすわけにはいきません」

「お前本っっっ当不安定でめんどくさい奴だよね」

 遊びは終わり。休憩も終わり。巳代治の態度は嫌がおうでも仕事に戻らざるを得ない威圧感を持っていた。

「何で首相のこの僕がこうしてたかだか内閣書記官長の巳代治にふり回れなきゃいけないのかな」
「私は閣下に振り回されている方ですよ?閣下を振り回しているのはもっと違う人たちでしょうが」

 元勲内閣と揶揄される現内閣の面々たかだか数人を思い出しただけでそれもそうかと納得する。これに民党が加わり貴族院が加わり財界が加わり新聞社が加わり世論が加わり欧米列強・清帝国・朝鮮半島と、一体ダレがダレに振り回されているのやら。


「そう、それじゃぁ巳代治。大人しく僕の意見に賛成する気になった?」
 ぶつぶつ言いながら仕事のために椅子にちょこんと戻った伊藤に、いつもの紅茶じゃなくコーヒーを出した巳代治に問いかけるとこの美男子はにっこりと冷たく微笑んだ。
「うわべだけの賛成ならしてもよいですが、それでは英国が動き出したとき本当に黙って大人しくなるのは閣下だと思いますよ?」
 伊藤は砂糖の入れられたコーヒーをそれこそ黙って大人しく飲むと、葉巻を取り出した。
 そして巳代治に火をつけさせ、ふっと苦笑した。
「・・・お前のね、そう言うトコロは嫌いじゃないよ」
 さぁ第二対戦と行こうか。




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ごめだいぶ力尽きた感が否めない。何かこう私の中の巳代治を書こうとしたら
あまりのカオスっぷりに筆が折れた。心と一緒に折れた。
てゆーかシリアスとかギャグとか混じって読みにくいな。
342の「不安定」な感じを出したかったんだ。
あと少年342は絶対に可愛かったと断言する。伊藤が気に入るのも無理はない。
そこから先の成長過程で何かがどうしようもなくゆがんだのはやはり伊藤のせいだと信じて疑わない。
今度はゆがみきった奴を書きたいお。伊藤閣下に対してもう超絶にどSで拗ねもーど全開な鬼畜342で行きたいよ。
それでタロちゃん首相に心配された挙げ句ガタもうんざりしていればいい。
それから統帥権干犯問題でちょっといとぅーを思い出して人間として少し成長すればいいと思う。おせーよ。

多分外伝的なもの後日うp予定。

読み物 / 2010.02.25

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