あめ玉



「閣下!」
 その日、もとより口うるさくおかしな言動が否めない伊東巳代治が執務机の4分の3以上身を乗り出して騒いだ。

「みよじ、邪魔」
「冷たいですね、相変わらず」
 大人しく引き下がったのはいいものの、相変わらず机の前から一歩も動こうとはしない。
「・・・・で、何」
 伊藤が書類に目を通しながら投げやりに聞くと、巳代治が真剣な声で言う。
「閣下、あの噂は、お聞きになられましたか?!」
 伊藤はびくっとして巳代治の顔をじっと見た。巳代治が、こんな真剣に、あの、という噂?
 情報関係の仕事は巳代治にほっぽりなげて、そういう形では信頼を寄せている伊藤である。
 またなんぞこの大日本帝国の崩壊の兆しか、と思えば。
「あの、あの私が閣下にいいように使われているので不満を募らせているとかいう根も葉もないうわ・・閣下ぁああっ」
「みよじ、その書類、取って」
 完全スルーで仕事を再開した伊藤に巳代治が食いつく。
「閣下、私の話をちゃんと聞いてください!」
「あのねみよじ、僕お前の話はいっつも真剣に聞いているさ。もちろん仕事限定だけど」
「この巳代治との関係は閣下の大事なお仕事になんらの関係もないとおっしゃるのですか?」
「いやあるんじゃないかな、多少。この信頼関係が崩れたらどうなると思う」
 信頼関係、という言葉に満足したらしい巳代治は少し落ち着いたようで、
伊藤に言われたとおりの書類を差し出しなおかつ散乱状態の机の片付けまで始める。
 しかしこれしきのことで懐柔される器ではない。
「ですけど閣下。そんな不本意な噂を耳にして、黙ってはいられませんよ」
「火のないところになんとやらと言うしね」
「閣下!やっぱり閣下は私をそんな風に・・」
「うるさいなぁ、そんな噂ごときに取り乱すなんて、やっぱり思い当たることがあるんでないの」
「閣下!」
「うるさいっ」
 伊藤に一喝されてしゅんとなった巳代治は拗ねた子供のようにしばらく黙って作業を続ける。
 部屋に響くのは、紙のすれる音と、時折ペンの走る音。

「・・・みよ」
「はい」
「この部屋にきた理由はまさか、本当の本当にそれだけ?」
「いけませんか」
 伊藤はちらりと傍らでじっとこっちを見てくる巳代治を一瞥する。
「・・・・まさかね。この僕の第一の秘書を自認するみよじが、まさか。」
「そのまさかかも知れませんよ」
「あのね巳代治」
 伊藤はあきらめて、今手にしている書類をほりなげる。
どうせ巳代治が持ってきてそこのソファーにでも置いてあるであろう資料がなければ、何回見ても意味がない。

「僕はね、今の今までいろんな人の使いっ走りをしてきたさ」
「閣下」
「つらいよ。認められるより怒られることの方が多いし、当たり前のようにこき使われてさ。みよ、お茶」
 言われるがままに暖かいお茶を入れて巳代治が戻ってくると、伊藤は一服する。
「・・・・でも、僕はね」
 ずーっと音を立てて茶をすすりながら、伊藤は言う。
「巳代治のこと、ちゃんと認めてる。信じてるし、頼りにしてる」


 
「それってすごく幸せなことじゃ、ないの?」



 そのとき巳代治が見た伊藤はどこか遠い場所を見ていて。
 失ってしまったであろうその幸せ、を思い描いていることくらい、ずっと伊藤のそばにいる巳代治にはわかる。
 決してこちらを振り返ってくれることなんてない。それでも、ほんの時折頼りにされているなと感じる瞬間。
 それはきっと叶わぬ恋をしたときのような、不安と不幸の中で、凝縮された幸せの味。
「・・・・噂ごときで騒ぎ立てる、生半可な奴なんか大嫌いだよ」
 春の日差しの中に霙交じりの冷風が吹きすさんだような、普段では考えられないような低い声。



「そうでした閣下、それどころではありません、これを見てくださいよ」
 巳代治が突然高い声をあげ、部屋に入ってまずソファの上に大事に置いておいた資料を伊藤に差し出す。
 珍しくとっさに『日常』に戻れなかった伊藤は、しばらくぼんやりと資料を眺めた。
「・・・・・・・って、え、え?えぇ?!」
 崖っぷちを綱渡りする、それが大日本帝国の日常。

 

「みよじの役立たず!なぁんでこんな大事なことを先に言わないんだよぉお」
「ひどい閣下、私だからこの段階で見つけられたんですよ」
「それがお前の仕事だろうが!ちょ、聞多・・・じゃだめか、ええっと誰?陸奥?!」

 でもやっぱりご褒美のあめ玉がいっぱい欲しくなるのも人間の仕方のないところで。

「待ってくださいよ閣下~」
「早く来いみよ!!」
 貴殿、と決めた人の側に仕える、幸せはあまりに瞬間的。





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巳代治→伊藤→木戸さん的な。 
伊藤は木戸さんとか来原さんみたいな人がいて、巳代治の思いも十分に理解できるけど、
だからこそ自分がその思いを受け止めることはできない、っておもってそうだな・・
という妄想から(長)


読み物 / 2009.05.05

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