表と裏



 その日、いつものように井上馨が約束より半刻ほど遅れて伊藤の元に現れた。
「よう俊輔」
「あぁ聞ちゃん」
 伊藤は井上の来訪などにろくすっぽかまいもせず仕事中。
井上もそんな伊藤の態度にかまいもせずソファーにどっかと腰掛け「俺様コーヒー」と隣の部屋に向かって声をあげた。
「今日は巳代治いないよ」
 伊藤は静かにそれだけ言うと、ペンを投げ捨て椅子から立ち上がった。そうしてぐるぐる肩を回しながら井上と自分の分のお茶を入れはじめた。
「そうなのか、代わりの人間は?」
「うん、急だから。別にいいかと思って誰も」
「あっそ、何の用だ?また何か」
 よからぬことでも、とため息をつく井上。権力者伊藤の秘書が急に持ち場を飛び出すほどの吉報が
思いつければ似合わぬため息などつかないものを。
「そう、ケンカした」
「はぁ・・あれだな、それはまた・・・けんかぁ?」
 素っ頓狂な声をあげ井上がソファーからがばっと身を起こす。
「あれを喧嘩というならね、ていうか一方的に巳代治が出て行ったんだけど」
「ケンカね、ケンカ。それはケンカじゃないだろう」
「じゃぁなんなのさ」
 まるで興味ないと言わんばかりに井上の前にコーヒーを置く伊藤にむかって、井上はもう一度軽くため息をついた。
「おいよ俊輔。あのお前大好きな伊東巳代治が一方的に出て行く?第三者である俺は喧嘩ごときであいつがお前のもとを離れて、しかもあれだ、仕事を放棄するなんてあり得ないと思うがな」
「そうだね、第一者である僕もそう思うよ」
「そうだろう。あいつが出て行くとしたら、お前が一人にしてくれと命令するかお前が尋常でない様子だから気を遣って出て行くか、もしくはさしものあいつでも耐えられないほどのことをお前が口走ったかさぁどれだ」
 それだけ一気に言い切ると、井上はコーヒーをも一気に飲み干した。
しかしその瞬間伊藤がばん!とテーブルを両手でたたいたものだから、飲み干されたはずのコーヒーは再び空気中に拡散することになった。
「げほっ、おえ、ごっほ、」
「きったないなぁ聞ちゃん、ほらそんな一気のみするからだよ」
「ち、げぇよ、お前のせいだ」
 伊藤に背中をさすられながら涙目の井上が言い返した。
「何、さっきから聞ちゃんは何でもかんでも僕のせいにしたいみたいだね」
「いやだから」
「僕だってわかんない巳代治の馬鹿は一体どこ行ったんだよ~~~!!」
 ぽかんとする井上の背中をひたすらにさすりながら伊藤が叫んだ。
「あぁまたちょっとしたことで言い合いになったさ、でもあれなんて三日おきにやってるくらいの全然たいしたことない喧嘩だったんだよ?
 それなのに突然何の連絡もよこさなくなりやがって僕だって色々考えたさ!でもどんなに思い返しても何もないよむしろ普段より僕は巳代治の言うことを聞いたし自分の非を認めてそうして話し合いを終えたしその日の仕事も終えたのに何なんだよ一体あいつはぁあああ」
「よしわかった俊輔落ち着け背中が燃えそうだっ」
 はぁはぁと肩で息をする伊藤の手から離れ井上は自分の背中に息を吹きかけようと必至に首をひねる。
「・・ねぇ聞ちゃん」
「ふぅっ、ごほっ、あ、何だ」
「どんなに考えても巳代治が何で怒ってるかわからないんだ。
 ううん、それよりも本当に怒っているから連絡がつかないのかどうかもわからないんだ」
「俊輔」
「・・あぁやっぱり人に探させるよ、意地を張って取り返しのつかないことになるよりかよっぽど」
 素直に心配の表情を見せた伊藤が扉の方に向かいかけたとき、ノックが聞こえた。
「伊藤閣下、山県閣下より急ぎの手紙です」
「もう何なんだよこんなときに、それよりも・・」
「あの、何でも何か行動を起こす前にとにかくその手紙を読んでからにしろときつく・・」
「・・・一体何なんだよ」
 悪い予感に顔をしかめた伊藤は、乱暴に山県の手紙を開いた・・・。



「・・・・俊輔、おい俊輔?!」
 途端に手紙をほりなげて「出かけるよ」と上着をひっつかんだ伊藤に、井上が慌てて声をかけた。
「どうしたんだ、山県はなんて」
「あぁ、表向きは単に次の話し合いの日程の確認と時間の変更さ、ちょっとした」
「はぁ?」
 井上は伊藤が捨てた手紙を拾い、内容にざっと目を通す。確かにそれだけの理由だ。
 内容は、それだけなのだが。
「表向きは?」
「そう、裏向きはね、
『お前と喧嘩したなど言って伊藤巳代治が私のもとで秘書になるなどと言っている。
はっきり言って迷惑だ面倒だ。さっさと迎えにこい』
だよ」




 ところ変って陸軍省某所。人払いをして書類整備に追われていた山県の元にけたたましい足音が二組。
「みよじぃいい!」
 ばぁんと扉を吹っ飛ばしかねない勢いで伊藤が姿を現した。
それにびくっと驚いたのは確かにその部屋にいた伊東巳代治で、山県はと言うと伊藤に一瞥もくれない。
「な、え、閣下・・・?」
「何が閣下だ!連絡も入れずに行方不明になりやがって!
僕を見限って山県につくならそれでもいいけどせめて一言連絡を入れろ連絡を!」
「な、何をおっしゃるのですか閣下、私が閣下を見限るなど・・・、それよりも閣下、どうしてココが」
「あぁ、山県からの手紙に書いてあったよ」
「そんなっ、山県閣下!」
 巳代治はくわっと今度は我関せずでいた山県のほうに向き直った。
「伊藤閣下には言わないでいただけると約束したではないですか、いや、それよりも先ほどの単なる日時調整の手紙のどこに何を書いたのですか!」
「裏向きの用件として
『お前と喧嘩したなど言って伊藤巳代治が私のもとで秘書になるなどと言っている。
はっきり言って迷惑だ面倒だ。さっさと迎えにこい』
と」
 山県は心底迷惑で面倒くさそうにそれだけ答えた。遅れて入ってきた井上がはは、と気の抜けたように笑った。
「そんな・・・私が代筆した手紙で堂々と私の閣下とそんな暗号を交わし合っていたなんて・・、お二人はそのように深い仲なのですね!!あぁ自らの手の内から墓穴を掘ってしまった挙げ句閣下のそのような愛の囁きあいの手助けをしてしまうなんてぇ・・!」
「だからお前が山県の代筆をしているそれが暗号そのものだっつーの」
 伊藤が巳代治に蹴りを入れた。深い仲やら愛の囁きなどと言われた山県も刹那仕事の手が止まった。
 巳代治は蹴りを入れられた伊藤ではなく山県をきぃっとにらみつけた。
 自分の必死の訴えを片耳で聞き流しようやく秘書らしく「ならば代筆を頼む」などとよりにもよって伊藤への代筆を頼まれた時点で陰険め!と歯ぎしりしていたところを、まさかそれが仇となりその結末を見越した上で私の閣下と連絡を交わすなんてあぁ憎らしい人!


「伊東巳代治、お前はむしろ伊藤がお前の代筆を一発で見抜いたことを喜ぶべきだろう」
 よかったな、と如何にもどうでもよさそうに山県が呟いた。
 余計なことを、うるさい、そもそも、いい加減にしろ、等の言い争いをそれこそ視線だけで一瞬のうちに伊藤と山県が交わしたことに、感動に心を打たれていた巳代治はついぞ気づかなかった。何よりである。
「何感動に打ち震えてるんだこのばかっ、お前の字なんて見飽きるほど毎日毎日報告書やら手紙やらで見ているんだから、あたりまえだろう」
「閣下・・」
「だからいきなり連絡もなしに消えるんじゃないよ、」
 心配するだろう。伊藤は巳代治を真正面からにらみつけ、そう言った。
「それはあの・・」
「言い訳無用」
「私はただ」
 巳代治が覚えず真剣な声で訴えた。

「私はただ閣下に、閣下の側に私がいることは当り前じゃないということをもう一度思い返していただきたかったのです」
「・・・・巳代治・・」
「そんなご心配をおかけするつもりではなく、いえそりゃご心配くだされば嬉しいななんて考えてはいましたが、そうではなく、ただちょっと・・」

 伊藤は思う。確かに最近は巳代治が側でなんやかんやとしてくれることを当り前に感じすぎていたかも知れない。
 それは決して雑用だとか身の回りの世話だとか、そういう意味ではない。
 今の自分には秘書くらいいくらでも代えられる、雑用係なんて他の誰でもできる、それどころかたとえ自分一人になったとしても何も不自由しない、得意分野だ、だからそんなことを当り前に思ったって罰はあたらない。
 でも仕事上の巳代治の力は違う。自分にはできないことを代行する、その力があるからこそ伊藤は巳代治を側に置いている。彼がいなくなれば"伊藤博文"ができることが減ってしまう。弱くなる。
 そして彼がいつまでも自分の側にいるという保障は、例え彼が否定したとしてもどこにもないのだ。
 だから彼の力があることをあまりに自分の能力の中に組み込んで考えていてしまっては、いざというときに自分は負ける。それは伊藤が一番よくわかっている。そしてこの考え方が冷たいと言われることも。

(貴方ならきっと独裁者!なんて怒るんでしょうね、かつてそうしたように)


「・・そうだね、今、よく思い返した。・・・ありが」
「この広い世界の下で閣下に出会い閣下にお仕えすることができるこの幸せを奇跡と呼ばずになんと言う・・・
 ってあぁ閣下最後まで私の感謝の気持ちをちゃんとお聞きください!!」
「うるさい帰るぞ巳代治、あぁあぁ無駄なことに僕の貴重な時間と精神を費やしちゃったよ」
 ひくっと頬を引きつらせた伊藤が未だに何かを訴えようとする巳代治を引きずるように部屋の外に連れ出したのを見て、残された山県と井上がそろって大きなため息をついた。
「邪魔したな山県」
「大いに邪魔だった」
 じとっとにらみつけられ、井上は大げさに山県の机をばんばん叩いて抗議した。もちろんそのせいで書類に墨がにじもうがサインが途中で止まろうがお構いなしだ。
「訂正する大いに邪魔だ」
「今回俺様には何の非もないだろう。むしろ俺だって被害者なんだからな」
「そうか、俺にとって迷惑なことが起こると何かしら井上さんも絡んでいると思っていたんだが」
「よっくいうぜ」
 肩をすくめた井上が部屋を出て行き、ようやく山県のまわりは一時的な静寂を取り戻した。


・・・

 その日『伊東巳代治が山県の秘書になる?』なんていうニュースが一瞬だけ人々の話題に上ったが、すぐに立ち消えた。
 真相はその後誰から詳細を聞き及んだのか、むしろ吹き込まれたのか、山県を問い詰め問い詰め夕飯を奢ってもらうことでようやく落ち着いた桂太郎しか知らない。

 表も裏も、慌ただしい明治政界。
   今日も、また。
       明日も、きっと。







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私はこいつらが好きすぎるだろう。
伊藤はやっぱ高杉とか木戸さんとか大久保さんの影が大きすぎると思う。
そうさ!閣下はいつまでたっても使いっぱしりの俊輔君なんだよ!
そういう意味で上に立つ人間には最後までなり得なかった伊藤閣下萌え。
木戸さんは無意識むしろ意志に反して人の上に立っちゃう人だと思う・・よ。
その点で巳代治はちょっとかわいそうだったかなーとか。
いやそうでもないか。

で伊藤関係のごちゃごちゃに多かれ少なかれ巻き込まれる山県もかわいそうかなーとか。
思うわけない。ガタ閥って何か避難所(とかいてサラ金と読む)みたいだよね!



読み物 / 2010.01.08

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