「どうしたの木戸さん、」

 部屋に遊びに来ていた山田が小首をかしげて木戸をのぞき込むと、お気に入りのカップで紅茶をすすっていた木戸はしばしその場で動きを止め、なにが?と笑顔を作った。

「眉間にしわ寄せて・・・またあの大久保さんと喧嘩でもしたの」
「やだなぁ市・・・そんな喧嘩だなんて・・」
 と言いつつ笑顔にひびの入り始める木戸。ふむ、と山田は現状を理解し、ささくれだった木戸の心を静めてあげようとにっこり笑いかけた。


「あのね木戸さん、不思議の国って知ってる?」

「不思議の国?」

 どうやら木戸の好奇心をくすぐるのは功を奏したようで、山田は満足そうに頷く。


「うん、僕、本を貸してもらったんだ、持ってきてあげるから、一緒に読みましょう!」
「おもしろそうだね」
「じゃぁちょっと待っててくださいね」

 そう言って山田はいささか乱暴にドアを閉め、ばたばたと駆けていった。




KIDOSAN
IN
THE WONDERLAND





 しんとした部屋に残された木戸は、机に落ちる木漏れ日をぼんやりと眺めた。
 さっきまでのふつふつとしていた怒りも今では影を潜め、午後のけだるい眠気が、脳裏におそらく今自分のために一心に走ってくれているであろう山田のかわいい笑顔を浮かばせ、思わず口元がゆるむ。
 そうするとここ数日には珍しく本当に穏やかな気持ちに満たされ、いよいよ木戸はゆっくりと目を閉じた。




『大久保さんの意見にはとうてい同感できません!』
『それはこちらの台詞です、木戸さん、貴方のいうことは・・』
『このように強硬な政策ばかりとっていたらこの明治政府の将来がどうなるとお思いですか』
『失礼ですが、この政府、ひいてはこの国の将来を思うからこそ今この時期はですね』
『あぁあぁ、願わくばこの政府が、この国が、大久保さんの言う通りになるか私の言う通りになるか、今すぐ未来を見てみたい思いですね!』




 はっと足音に気づいたとき、すでに部屋の扉は開け放たれていた。
 山田は扉を開けっ放しにするような子じゃのに、と不思議に思ったと同時に、視界の隅をとらえたのは。

「・・・えっ?!」


 木戸がそこで見たのは・・・

「き、君は中谷さんとこの・・桂君?」
 
 その桂が白いウサギの耳を生やし、木戸の机の上をじーっとみつめているではないか。
そうしてにこっと笑うとさっと机の上の 何か をとって、あっという間に開かれたままの扉からどこかに行ってしまった。
 不自然な空間の空いたつくえを見て、木戸はしばらく考える。

「ってえ、あ、私の時計・・!」

 木戸の叫びに気づいたのか、廊下の向こう側から声が聞こえる。


「すみませーん僕時計なくしちゃって、借りますねー」
「えぇえええ?ちょっと待っ・・」


 思わず木戸はウサギの後を追って走りだした。




 暗い廊下の向こうに白い耳がぴょこぴょこ揺れる。
夏の日差しがまっすぐ差し込む廊下がここまで暗いのは不気味な感じを木戸に与えたが、そんな不安を忘れようとするかのように自分のお気に入りの時計を持って走るベストを着たウサギを追いかける。
 ウサギの走りはどう見てもふざけたフォームなのに、なぜかなかなか追いつけない。
 これでもあの幕末の京都を逃げ切った逃げの小五郎、足に自身がないわけではないのだが。


「とうっ」

 ウサギは可愛い声をあげて階段のようなところーというのも本来そこには階段があったはずなのだが、いよいよ暗いそれは真っ暗な落とし穴が大口を開けているようでーに飛び込んだ。あっ、と思わず木戸が声を上げるが、時既に遅し。
 ウサギは暗闇の中にすぅっと吸い込まれてしまった。


 どうしよう。


 一瞬暗闇のへりで足を止めた木戸だったが、次の瞬間には心を決めて大きく足を踏み出した。





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